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私達は、ここで生まれた

この絵のテーマは、私が生まれた地域の資源の循環とエネルギーの話です。

私の生まれた場所は、福島県田村市という場所です。 

3.11震災当時、私は「都会と田舎の意識の分断」を大きく感じていましたが、長い時間を経た現在、「田舎と都会の関係性」を見直すきっかけがありました。

故郷の山で石灰石を採掘し販売する業者にお会いする機会があった際に、はじめていつも見る山から削る石灰石が、全国の食品やガラス·プラスチックにまで入っている事を初めて知り、地元の鉱山資源は形を変えてみんなの生活を支えている事に驚き、嬉しく思いました。
都会の人が田舎から持ちだした資源や工場誘致の対価が、田舎に住む私の生活に還元されている大きな流れを感じ、地球資源と人の営みは密接に繋がっていて、自分自身の身近な生活に大きく関わっている事を知りました。

そしてその故郷の山には、地域の人が生きて来た歴史やアイデンティティが詰まっていて、人の営みの象徴でもあります。ここの山には蝦夷の鬼伝説があり、まだ日本ではなかったこの地を馬に乗った征夷大将軍が制圧した伝説が残っています。
同時に江戸時代の田村市は馬の産地でもあり、馬を奉納する絵馬が文化財で残っています。来訪や時代と共に私の故郷は変わり続けてきました。

私は3.11の震災当時、そんな自分のアイデンティティが詰まった故郷の土地が脅かされる体験と当時住んでいた関東と故郷の意識の差を強く感じ、被害者意識を大きく持っていましたが、コロナ禍では都会からの来訪を極端に拒絶する風潮を目の当たりにして「都会と田舎の分断」は簡単に起こった事を目の当たりにしました。
他者に寄り添った行動を起こす難しさを改めて知りましたが、様々な視点の人を知る事により変わる事もあると思います。この絵の制作にあたり、故郷を起点とした人間の営みや地域資源を通して、大きなエネルギーの中で生きる「都会と田舎の繋がり」を人々を通して学びました。

インタビューした人は3人です。

Aさんは、10代で集団就職で故郷から離れ関東に移住しました。
現在も関東住まいで、故郷には憧れをずっと持ち続けています。

Bさんは、大学は関東に進学しました。その後は、東京と故郷の2拠点生活で、それぞれの場所で活動しています。

Cさんは、生まれも育ちも故郷に居続けました。
3.11の際には原発事故による避難も経験しましたが、故郷に帰り変わり続ける田村市を見つめている人。
同じ故郷を持ちながら状況や立場が違う視点の人の話を集める事で改めて客観的に震災を振り返り、あれから人々がどの様に変化し生きてきたかを知りながら素材を収集しました。

3人のお話を聞きき素材を集めて感じたのは、私が生まれた故郷の地域資源や人が、この世をつくる一部である事を誇りに思いました。そして生まれてきてありがとう、という讃美の絵です。

インタビュー

以下、インタビュー内容

①3.11震災当時の話

②現在の暮らし

③集めた素材

Aさん

①神奈川県川崎市で仕事をしていた。街道が歪んだのが見えた。

仕事の復旧に1時間程かかり、その後ニュースで東北の被災状況を知る。そこから、福島の親戚に電話をしたが通じない、川崎の家に電話しても通じない。その後、家に帰り自分の家族の無事を確認した。

次の日街中の公衆電話を発見し、福島の親族にかけた。無事安否確認ができた。

今すぐにでも福島に帰りたかったが「落ち着くまでは川崎にいなさい」と姉に言われ、機会を窺っていた。やっと様子を見に帰れたのはその夏に家族で東北道を通り11時間かけて福島へ向かった。道路がものすごく混んでいた。道路が普及していない事もあるが、それだけ人の往来がこの道にはある。関東と東北の関わりがある人は実は多い。自分自身も15歳から集団就職によって川崎に暮らしていたが、同じ福島・東北や各地方から川崎の工場に勤める為に移住し暮らしてきた。故郷を離れて40年近くなるが、今でも生まれた場所に帰りたいと思うし、子供の頃に食べたお米の味や空気は忘れる事はない。たまに帰る度に、故郷が変わっていく姿が切なく、変わってほしくないと望んでいる。

②川崎のマンションに住んでいる。自分で作ったミニバスケットチームに今でも力を注いでいる。この地域での繋がりはそのミニバスチームの人達だ。川崎の暮らしでは「情」を大事にしている。「物」は人を醜くする。”何かを要求するならば何をしてくれるのか?”という世界を生きてきた。

今でも、たまに故郷に帰る理由は、15歳までいた故郷を思い出しにきている。

③バスケットボール、実家の土(黒)

Bさん

①東京から福島に帰る途中、新幹線の中で被災した。上野駅でトンネルの中だった。隣のおじ様と話をしながら気を紛らわせていた。おじ様は気仙沼に帰るところだった。気仙沼の被災状況を見聞きすると、そのおじ様をいつも思い出す。上野駅から歩いて東京の家まで3,4時間くらいかけて帰った。大混乱の中福島には帰れず、福島にいた母にも「帰ってくるな」と言われ中々帰れない中、不甲斐ないやり場のない想いを抱えた『なぜ福島に私はいないのか?』。社会人になって初めて勤めてた福島の先輩にその想いを電話で伝えた。「今はそれでいい。ただもしも同じ様な状況がまた起きた時は、動けるあなたになれる様に今から努力しなさい」という言葉をいただいた。現在、地元の活動を頑張る原動力のきっかけの一つの言葉になっている。

②現在暮らす東京には若い女性が多く、生き生きとキラキラとしているのが印象的だ。自分自身も上京したては「大人の女性の憧れ」から赤いペディキュアを欠かさなかった。キラキラした女性の象徴だった。

しかし東京では「なぜここで生きてるのだろう?」と思う時があり、「どこで生きるのか?」を常々考える。自分にとっては最後まで責任を負って生きていく場所が地元だった。存在意義や地元に恩返しをする使命感を感じている為、田村市にも拠点を構えている。また田舎では都会のキラキラはないが、人の手が入った花壇や野生の花が常に目にとまり、儚さと力強さと兼ね備える姿が田舎の生き方に通じていると感じる。

③赤いマニキュア、故郷の花。

Cさん

①地元の田村市都路町の森林組合に勤めていた。当日も、地元の山で仕事をしていたが、作業を中断しそれぞれ帰宅した。ちょうど還暦の年で、次の日には還暦会を地元の同級生と海沿いの街で行う予定だった。時期がずれていたら、より大変になっていたと思う。次の日には行政の要請で自宅から避難する事になり「これは大変な事が起きた」と悟った。最初は奥さんの実家へ、後には仮設住宅に移動した。震災から2、3年かかり家に戻れたが、奥さんの務め先や暮らしの関係から、同じ市内の別場所に移動した。

当時は、震災絡みの補償の話が身近で飛び交っていた。私の家は30キロ、地域によっては20キロ。同じ地元でも補償金額が違い、身近なところで溝ができ醜い人間の欲が飛び交う。それを自分は冷静に見ていた。「人間とは、こんなものなのかな?惨めだな」と、見たくない部分を見たと感じた。だからこそ自分は、自分が持っている物は他者に惜しみなくあげる様に心がけ、人を信用する事をやめず、前向きに生きる事を今も心掛けようと決めて生きている。

色々あったけど震災後初めて開催した最近の同級会では、会えば学生時代に戻れる良い関係性のままだ。

どんな過去があってもいつ会っても何があっても変わらない地元の同級生の良さや繋がりを感じている。

②「朝目覚めた、空気の旨さ。今住んでいるところでは感じない香りを、ふっと思い出す。」

昔から住んでいた良さを震災前は、当たり前だったから気づかなかった。

違う場所に住んでようやく、60年生まれ育った土地の匂いは、忘れないと気づいた。

だからこそ現在、以前の様な居心地がよい場所を見つけ、現在はリフォームしているところだ。今度こそ終の住処を手に入れて、ワクワクしている。③子供の頃、遊んでいた今はない家の近くの欅の木の皮。現在リフォーム中の家の土壁(黄)

北で生きて来た

制作のきっかけ

「北で生きてきた」の制作は、千葉大学人文科学研究院名誉教授の池田忍先生と北海道で偶然に出会った事から始まりました。
 
この作品は、私が2019年6月頃に1ヶ月半程の期間をかけて北海道リサーチの旅に出た事から始まります。
あの頃の私は『なぜ、福島に原発ができたのだろう?』という問いから、福島の歴史について自分なりに調べる中、日本の北の文化を調べたいと考えるようになり、北海道リサーチの旅に出かけました。
 
そもそも「貧困とは、何をもって決定されるのだろうか」「そこの地域に住む人にアイデンティティがあり、長い目で見たその地の豊かさを知っていたら、貧困だと感じなかったのだろうか?」という観点から、約1500年前に東北が日本になる前の蝦夷の時代が気になる様になりました。

その時代は東北がまだ日本ではない時代で「その頃の東北のアイデンティティが残っていて、今失っている地域性を見直すヒントがあるではないか」と考えました。
しかし、蝦夷の時代の記録は伝説では残っていますが明確な記録は残っていません。
そこで気になったのが北に住むアイヌ民族でした。
「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」との疑問が浮かんだと同時に、「アイヌ模様の着物」という漠然としたイメージしか知らない自分に気付きました。
福島の地域性をより深く知る為には北に残るアイヌ民族のアイデンティティにヒントがあるのかもしれないと考え、北海道へ旅に出ました。

リサーチでは、北海道大学の先生、天神山アートスタジオの方々など多くのアイヌ民族に関わる方々にご協力を頂きながら、アイヌ文化と北海道の歴史を学べる場所を巡りました。

池田忍先生との偶然の出会い

道内を車中泊していた中、二風谷というアイヌの村にあるゲストハウスに偶然宿泊する事になり、池田忍さんに出会いました。
北海道に来てから、私の事を知る方はもちろんおらず、作品を制作する目的もなく弾丸で来てしまったので、自分がアーティストだとも考えずに日々を過ごしていましたが、池田さんは以前私の作品を見たことがある方だと知り、盛り上がった一夜を過ごしました。
とても嬉しい出会いでした。

北海道リサーチ

リサーチで学んだ北海道の歴史は衝撃的でした。
まず、北海道と呼ばれて150年という事を自分自身が意識した事がなかったですが、よく考えると短い歴史だと知りました。そしてそれは、150年前当時の戊辰戦争の影響もあり、全てではないですが東北からも多くの開拓者がいて、北海道の歴史は東北と深い繋がりがある事も理解しました。
池田家も山形からの開拓者だという事でした。また今も残る日本からの開拓民とアイヌ民族との複雑な関係があり、生々しい人間の歴史を学ぶ事になり戸惑いました。
「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」とう疑問を解決したくて北海道を訪れましたが、日本人もアイヌ民族もそれぞれの考えがあり、何が差別になるのか、どんな文化や血だとアイヌになるのか、など混乱しました。
アイヌ民族の方々も一度壊された自分達の文化を、どう取り戻していけば良いのか、それぞれに模索していました。 

4年ぶり、池田さんから壁画制作のご依頼

北海道の旅を終え、4年ぶりのご連絡で池田さんに新築の家に壁画を制作するご依頼を頂き、正直驚きました。
 
絵のテーマは北海道リサーチの内容をテーマに描きたいと考えながら、池田さん出身の北海道・佐藤出身の福島・池田家が暮らす京都から土や灰を採取しました。約19種類の素材を集めました。

北海道・福島・京都の3カ所からリサーチと共に19種類の土を採取

北海道

福島

京都

北海道リサーチを作品にこめて。

素材を探しながら“北”“雪”のイメージは表したいと決めていましたが、描き始めた当初、メインのモチーフが全く決まりませんでした。アイヌ民族に合わせて、アイヌにとって重要な動物であるフクロウや熊にしようかな?と思いましたが、私はアイヌではないので、描くのは何か違うと躊躇していました。では東北が蝦夷の時代のモチーフとは何だろう?という観点に至り考えてみましたが、明確な記録はないので、想像するしかありません。

京都の美しい装飾からインスピレーションを受けて。

結局決まらずに、京都にて絵の仕上げに向かう事になりました。
池田家の近くには西本願寺の唐門があり「散歩してきたら?」と促されて何得なく見に行きましたが、やはり京都はお寺の大きさも装飾も東北ではお目にかかれない造りのものばかりです。
唐門の立派な沢山の装飾を見たのが印象的でした。中でも鳳凰に目が行きました。鳳凰・不死鳥とは、数百年に一度炎に飛び込んで転生することで永遠に生きると言われている伝説上の鳥で、中国では縁起がいい霊獣とされ、京都にも多々モチーフとなった美術品があります。中国や日本でも西の威厳のイメージが強いですが、それを私は美しい装飾だと感じました。

遠い歴史と土地に触れ、自身や北で生きて来た人々のアイデンティティを感じた。

東北が蝦夷だった時代は大昔で、その場所で生まれた現代の私は京都のお寺さんを見て日本を感じ、町屋の景色に感動したりとすっかり西から来た文化と自分が混ざったのだな、と実感しました。
アイヌ民族も日本人が入り込んだ事により大きく変化した様に、例え不本意でも、どの国でも様々な民族や文化が混じり合って現在があるのだと、歴史を学ぶ事により自分自身も理解できました。
北海道に行き、京都でこの絵を描くまで、私はどこかで福島としてのアイデンティティや、蝦夷のDNAにこだわりを持ち、その他を否定していました。
不本意だった歴史はあれど、混じり合った上で現在があり、かつての異国の文化もしっかりと自分自身や福島の一部だという意識を持ちました。
その上で変化せずにその地に有り続ける文化は、その地の人々自身のアイデンティティの形成に繋がるのだと考えました。
 
不死鳥の事をもっと連想させると、転生や火のエネルギーを連想するモチーフでもあります。
その事から私は、不死鳥を原発・土地のエネルギーや再生の象徴のつもりでも描きました。
雪に覆われながら、その中でひっそりと生まれる不死鳥のイメージです。膨大な時を超えて北の国の文化や信仰は変わりましたが、消える事はないアイデンティティは私の中にあり、アイヌや開拓者の先祖の池田さん、その他の方々の中にも存在します。
時に、新たな開拓の土地を求めて、原発事故や戦争によって故郷を無くしたとしても、その人の中に流れるアイデンティティは炎の様に消えることはない事を、北海道を経て京都の旅で学びました。

制作風景

いのちの木

いのちの木

制作プロセス

私の制作は、周辺エリアのリサーチから始まります。

リサーチをするとその土地ならではの発見があり、そこから絵のモチーフを見つけたるなどインスピレーションを得ることができるので私にとって、とても大事な作業です。

土の採取

制作にあたり、保育園周辺と土屋病院に関わる場所を歩きながらリサーチし、土を採取しました。

「かぐいけ坂の保育園」ができる前の工事風景。
園の下の土も使用しました。

絵の具作り

採取した土に水と水溶性樹脂を混ぜ合わせて、絵の具にしていきます。

制作風景

作業の9割は床に置いて絵を仕上げていきます。

仕上げ作業

設置後に現場で仕上げの作業をしました。木がどんどんと伸びる様な表現は、現地の建物からインスピレーションを頂きながら描きました。

原子へと続く道

十日町市下条地区の約14種類の土

十日町市下条地区の約14種類の土で描いています。

豊かな土の色が取れるこの地域は、同時に風景の豊かさを感じます。元小学校の階段踊り場という独特な場所を利用して、洞窟の様な空間をつくりました。イメージは一つの生命の体の中を通る絵にしました。ここの場所で生まれた生命は….足元からエネルギーがあふれ出し階段を上がるごとに色が灰色になり、やがて枯れていくような。一つの生命の一生を体現する作品です。

作品と一緒に採取した14種類の土と上郷地区の地図も展示しました。
一つの地域で豊富な色が揃うのは珍しく、それだけ自然豊かな場所だという事を証明しています。

絵の表層

土の絵の具を何層にも重ね描いています。
グレーの土は、この地域でよくあるマブと呼ばれる用水路用の手彫りの洞窟から採取しました。

豊かな自然風景

展示場所の上郷小学校から見える風景。
里山らしい綺麗な風景が広がっています。奥に見える赤い崖からも土を採取しました。