Skip to main content

北で生きて来た

制作のきっかけ

「北で生きてきた」の制作は、千葉大学人文科学研究院名誉教授の池田忍先生と北海道で偶然に出会った事から始まりました。
 
この作品は、私が2019年6月頃に1ヶ月半程の期間をかけて北海道リサーチの旅に出た事から始まります。
あの頃の私は『なぜ、福島に原発ができたのだろう?』という問いから、福島の歴史について自分なりに調べる中、日本の北の文化を調べたいと考えるようになり、北海道リサーチの旅に出かけました。
 
そもそも「貧困とは、何をもって決定されるのだろうか」「そこの地域に住む人にアイデンティティがあり、長い目で見たその地の豊かさを知っていたら、貧困だと感じなかったのだろうか?」という観点から、約1500年前に東北が日本になる前の蝦夷の時代が気になる様になりました。

その時代は東北がまだ日本ではない時代で「その頃の東北のアイデンティティが残っていて、今失っている地域性を見直すヒントがあるではないか」と考えました。
しかし、蝦夷の時代の記録は伝説では残っていますが明確な記録は残っていません。
そこで気になったのが北に住むアイヌ民族でした。
「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」との疑問が浮かんだと同時に、「アイヌ模様の着物」という漠然としたイメージしか知らない自分に気付きました。
福島の地域性をより深く知る為には北に残るアイヌ民族のアイデンティティにヒントがあるのかもしれないと考え、北海道へ旅に出ました。

リサーチでは、北海道大学の先生、天神山アートスタジオの方々など多くのアイヌ民族に関わる方々にご協力を頂きながら、アイヌ文化と北海道の歴史を学べる場所を巡りました。

池田忍先生との偶然の出会い

道内を車中泊していた中、二風谷というアイヌの村にあるゲストハウスに偶然宿泊する事になり、池田忍さんに出会いました。
北海道に来てから、私の事を知る方はもちろんおらず、作品を制作する目的もなく弾丸で来てしまったので、自分がアーティストだとも考えずに日々を過ごしていましたが、池田さんは以前私の作品を見たことがある方だと知り、盛り上がった一夜を過ごしました。
とても嬉しい出会いでした。

北海道リサーチ

リサーチで学んだ北海道の歴史は衝撃的でした。
まず、北海道と呼ばれて150年という事を自分自身が意識した事がなかったですが、よく考えると短い歴史だと知りました。そしてそれは、150年前当時の戊辰戦争の影響もあり、全てではないですが東北からも多くの開拓者がいて、北海道の歴史は東北と深い繋がりがある事も理解しました。
池田家も山形からの開拓者だという事でした。また今も残る日本からの開拓民とアイヌ民族との複雑な関係があり、生々しい人間の歴史を学ぶ事になり戸惑いました。
「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」とう疑問を解決したくて北海道を訪れましたが、日本人もアイヌ民族もそれぞれの考えがあり、何が差別になるのか、どんな文化や血だとアイヌになるのか、など混乱しました。
アイヌ民族の方々も一度壊された自分達の文化を、どう取り戻していけば良いのか、それぞれに模索していました。 

4年ぶり、池田さんから壁画制作のご依頼

北海道の旅を終え、4年ぶりのご連絡で池田さんに新築の家に壁画を制作するご依頼を頂き、正直驚きました。
 
絵のテーマは北海道リサーチの内容をテーマに描きたいと考えながら、池田さん出身の北海道・佐藤出身の福島・池田家が暮らす京都から土や灰を採取しました。約19種類の素材を集めました。

北海道・福島・京都の3カ所からリサーチと共に19種類の土を採取

北海道

福島

京都

北海道リサーチを作品にこめて。

素材を探しながら“北”“雪”のイメージは表したいと決めていましたが、描き始めた当初、メインのモチーフが全く決まりませんでした。アイヌ民族に合わせて、アイヌにとって重要な動物であるフクロウや熊にしようかな?と思いましたが、私はアイヌではないので、描くのは何か違うと躊躇していました。では東北が蝦夷の時代のモチーフとは何だろう?という観点に至り考えてみましたが、明確な記録はないので、想像するしかありません。

京都の美しい装飾からインスピレーションを受けて。

結局決まらずに、京都にて絵の仕上げに向かう事になりました。
池田家の近くには西本願寺の唐門があり「散歩してきたら?」と促されて何得なく見に行きましたが、やはり京都はお寺の大きさも装飾も東北ではお目にかかれない造りのものばかりです。
唐門の立派な沢山の装飾を見たのが印象的でした。中でも鳳凰に目が行きました。鳳凰・不死鳥とは、数百年に一度炎に飛び込んで転生することで永遠に生きると言われている伝説上の鳥で、中国では縁起がいい霊獣とされ、京都にも多々モチーフとなった美術品があります。中国や日本でも西の威厳のイメージが強いですが、それを私は美しい装飾だと感じました。

遠い歴史と土地に触れ、自身や北で生きて来た人々のアイデンティティを感じた。

東北が蝦夷だった時代は大昔で、その場所で生まれた現代の私は京都のお寺さんを見て日本を感じ、町屋の景色に感動したりとすっかり西から来た文化と自分が混ざったのだな、と実感しました。
アイヌ民族も日本人が入り込んだ事により大きく変化した様に、例え不本意でも、どの国でも様々な民族や文化が混じり合って現在があるのだと、歴史を学ぶ事により自分自身も理解できました。
北海道に行き、京都でこの絵を描くまで、私はどこかで福島としてのアイデンティティや、蝦夷のDNAにこだわりを持ち、その他を否定していました。
不本意だった歴史はあれど、混じり合った上で現在があり、かつての異国の文化もしっかりと自分自身や福島の一部だという意識を持ちました。
その上で変化せずにその地に有り続ける文化は、その地の人々自身のアイデンティティの形成に繋がるのだと考えました。
 
不死鳥の事をもっと連想させると、転生や火のエネルギーを連想するモチーフでもあります。
その事から私は、不死鳥を原発・土地のエネルギーや再生の象徴のつもりでも描きました。
雪に覆われながら、その中でひっそりと生まれる不死鳥のイメージです。膨大な時を超えて北の国の文化や信仰は変わりましたが、消える事はないアイデンティティは私の中にあり、アイヌや開拓者の先祖の池田さん、その他の方々の中にも存在します。
時に、新たな開拓の土地を求めて、原発事故や戦争によって故郷を無くしたとしても、その人の中に流れるアイデンティティは炎の様に消えることはない事を、北海道を経て京都の旅で学びました。

制作風景

いのちの木

いのちの木

制作プロセス

私の制作は、周辺エリアのリサーチから始まります。

リサーチをするとその土地ならではの発見があり、そこから絵のモチーフを見つけたるなどインスピレーションを得ることができるので私にとって、とても大事な作業です。

土の採取

制作にあたり、保育園周辺と土屋病院に関わる場所を歩きながらリサーチし、土を採取しました。

「かぐいけ坂の保育園」ができる前の工事風景。
園の下の土も使用しました。

絵の具作り

採取した土に水と水溶性樹脂を混ぜ合わせて、絵の具にしていきます。

制作風景

作業の9割は床に置いて絵を仕上げていきます。

仕上げ作業

設置後に現場で仕上げの作業をしました。木がどんどんと伸びる様な表現は、現地の建物からインスピレーションを頂きながら描きました。